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最高裁医療判例real estate

最高裁医療判例
〇最判平11・3 ・23集民192号165頁

脳ベラ事件 過失の特定

(1) 顔面けいれんは、顔面神経が動脈と接触することから生ずるものであって、それ自体、生命に危険を及ぼすような病気ではないところ、その根治手術である本件手術は、小脳橋角部において顔面神経と脳動脈の接触部分をはく離するもので、脳ベラで小脳半球を開排し、手術器具で後頭蓋窩深部の脳動脈に触れる手術であるため、慎重な操作が要求され、生命にかかわる小脳内血腫、後頭部硬膜外血腫等を引き起こす可能性のあることが指摘されている。

(2) 本件手術は、Fの右小脳を脳ベラで開排して右小脳橋角部において脳動脈に触れるなど、術中操作は小脳右半球及び右小脳橋角部に及ぶものであるところ、Fは術後間もなく、小脳上槽、小脳虫部の上部周辺及び第四脳室に血腫が生じ、神経減圧術によって引き起こされる可能性が指摘されている小脳内出血を起こしたことが認められるほか、翌日には、小脳右半球の突出が強く右側小脳ヘルニアが認められるなど、小脳橋角部の近傍部及び右半球の異常が確認され、遺体の病理解剖においても、小脳虫部及び右半球に出血壊死性変化が強く見られると指摘されるなど、Fの脳の病変が手術操作を行った側である小脳右半球に強く現われていることが明らかになっている。

(3) Fは、入院後三週間にわたり術前の諸検査を受け、手術の適応があると診断されており、内科においても、高血圧症とは認められず、手術には差し支えないとの診断を得ていたのであって、術前に本件手術中に高血圧性脳内出血を起こす素因があることを確認されていなかった。

(4) 高血圧性脳内出血のうちそれが小脳に発生する確率は、約一割程度にす
ぎない。

(5) 遺体の病理解剖によっても、Fの小脳に生じた血腫の原因となる明らかな動脈りゅうや動静脈奇形の所見は認めないとされている。

以上のようなFの健康状態、本件手術の内容と操作部位、本件手術とFの病変との時間的近接性、神経減圧術から起こり得る術後合併症の内容とFの症状、血腫等の病変部位等の諸事実は、通常人をして、本件手術後間もなく発生したFの小脳内出血等は、本件手術中の何らかの操作上の誤りに起因するのではないかとの疑いを強く抱かせるものというべきである。

ところが、原審は、右のとおりの事実関係を前提としながらも、原審の認定した血腫の位置から想定する限り、被上告人B1らの脳べラ操作の誤りにより血腫が生じたと認めることはできないとし、また、同被上告人らが本件手術中に血管を損傷したことをうかがわせる出血があったことを認めるに足りず、さらに、動脈硬化による血管破綻や高血圧性脳内出血等、本件手術操作の誤り以外の原因による予期せぬ高血圧性脳内出血が本件血腫の原因となったと推測しても不自然ではないから、本件手術中に血管の損傷があったと推認するのは相当ではないとしている。しかし、Fは一過性の高血圧を示したことはあるものの高血圧症とは認められていなかったのであるから、本件手術中に高血圧性脳内出血を起こす可能性自体低いと考えられる上、高血圧性脳内出血が小脳内に発生する確率は前記のとおり一割程度にすぎず、本件手術中ないし直後に偶然、Fに高血圧性脳内出血等が起きる可能性は実際上極めて低いといわざるを得ない。また、本件手術中に偶然、動脈硬化等による血管破綻が生じた可能性についての具体的立証がなされているわけでもないのである。結局、原審は、本件手術操作の誤り以外の原因による脳内出血の可能性が否定できないことをもって、前示のとおり、Fの脳内血腫が本件手術中の操作上の誤りに起因するのではないかとの強い疑いを生じさせる諸事実やその他の後記2の事実を軽視し、上告人らに対し、本件手術中における具体的な脳ベラ操作の誤りや手術器具による血管の損傷の事実の具体的な立証までをも必要であるかのように判示しているのであって、Fの血腫の原因の認定に当たり前記の諸事実の評価を誤ったものというべきである。

2 本件手術の総出血量は九〇六ミリリットルであるところ(なお、本件手術記録中には総出血量一〇〇〇ミリリットルとの記載もある。)、証人Gも、右出血量が通常に比して相当多量であることは認める旨の証言をしている。また、本件記録によれば、硬膜内において顔面神経とこれに接触する脳動脈をはく離するという本件手術の硬膜内操作中は、項筋からの出血は止血済みであり、メスによる切除、切開等、出血を伴う操作を行うものではないから、出血が生ずることはほとんどないはずであることがうかがわれるところ、本件手術記録には、少なくとも硬膜内操作中であることが明らかな午後一時一五分に一五〇ミリリットルの出血量が記録されているというのである。硬膜内操作中の手術器具による血管損傷の有無が争われている本件において、右記録を軽視することはできないというべきである。原審は、午後一時一五分時の出血量の記録は午後零時三〇分ころから始まった硬膜内操作中の出血とは限らない旨、測定値には血液のみならず生理食塩水や排出した髄液が含まれている可能性がある旨を説示し、硬膜内操作中に一五〇ミリリットルの出血量があったとは認められないとしたが、右測定記録に関する原審の認定は、右記録の読み方としては不自然である。
また、本件記録によれば、Fの家族である上告人Aらに対する本件手術終了後の結果説明は、本件手術終了から数時間経過した午後七時ころになってから行われ、また、被上告人B2は、その際、本件手術が順調に終了した旨報告することなく、今後、Fには脳浮腫、脳出血が生ずる危険があるなどと説明したことがうかがわれるのであり、右の事実は、被上告人B1及び同B2が、本件手術中に異常な事態が発生したことを認識していたことをうかがわせるものであり、本件手術中の操作によりFの生命に危険を生じさせたのではないかとの疑いを生じさせる。
 
3 その上、原審が本件において重視した血腫の位置と手術部位との関係等に関する認定には、次のとおりの問題がある。すなわち、原審は、小脳内に生じた血腫の位置を問題にし、血腫はほぼ小脳虫部に当たる小脳正中部及び傍正中部に形成されており、手術部位である小脳橋角部に血腫があるとは認められないと認定したが、原審の血腫の位置の認定は、CTスキャンの所見によると小脳正中部及び傍正中部に血腫があるとする鑑定人Gの鑑定及び同人の証言に依拠したものであることが原判決及び本件記録に徴して明らかである。しかし、証人Gの証言中には、CTスキャンを見ると血腫は小脳右半球に多く見られるとする部分もある上、診療録(乙第三号証の1、2)には、本件手術当日午後一一時三〇分に施行されたCTスキャンの結果について「後頭蓋窩の第四脳室から中脳水道、さらに脚間糟〜迂回〜上小脳槽に血腫あり」、翌五月一八日施行のCTスキャンの結果(検乙第三四号証)について「後頭蓋窩血腫は著変なし」「第四脳室周囲の血腫に著変なし」、同日施行された各手術の際の記録として「小脳半球の突出が左側より右側が大であり、右側の扁桃ヘルニアの所見を認めた」との各記載があるのである。これらの各記載と脳内の構造に照らせば、血腫は、小脳正中部及び傍正中部のみならず、手術部位である小脳橋角部を含む第四脳室周囲にもあることがうかがわれるのである。また、同じく診療録には、同月二〇日に施行されたCTスキャンの結果を表した見取り図があるが、この図には小脳右半球に血腫が存在する旨図示されている。

以上によれば、診療録中に血腫に関する前記記載があるにもかかわらず、これを検討することなく、鑑定人Gの鑑定及び同人の証言から直ちに、血腫の位置は小脳正中部及び傍正中部にあるとした原審の認定は、採証法則に反するものといわなければならない。また、本件手術の翌日には小脳右半球に強い突出やヘルニア等の異常が現われていたことが確認されていたことは前記のとおりであるところ、原審は、右の異常の部位と本件手術との関連性についても何ら検討するところがない。
 なお、鑑定人Gの鑑定は、診療録中の記載内容等からうかがわれる事実に符合していない上、鑑定事項に比べ鑑定書はわずか一頁に結論のみ記載したもので、その内容は極めて乏しいものであって、本件手術記録、FのCTスキャン、その結果に関する被上告人B1、同B2らによる各記録、本件剖検報告書等の記載内容等の客観的資料を評価検討した過程が何ら記されておらず、その体裁からは、これら客観的資料を精査した上での鑑定かどうか疑いがもたれないではない。したがって、その鑑定結果及び鑑定人の証言を過大に評価することはできないというべきである。

4 さらに、原審は、脳ベラの使用が原因となって血腫が発生するのは、脳ベラをかけた場所の直下あるいは近傍部であるが、そのような場所に血腫があったとは認められないとの理由で、脳ベラの操作の誤りにより血腫が生じたとは認められないとし、また、手術部位である小脳橋角部と血腫の位置は近接しているとはいえないとの理由で、手術器具により血管が損傷されて出血したものとは認めちれないとしている。しかし、鑑定人Gの鑑定及び証人Hの証言中には、脳ベラの操作によって血腫が発生する場所は、脳ベラをかけた部分あるいはその近傍部に限らず、離れた部位に発生することもあり得るとする部分も存するのであるから、脳ベラをかけた場所の直下あるいは近傍部に血腫が存することは認められないとの原審の認定を前提としても、脳ベラの操作と血腫の発生との関連性を一概には否定できないというべきである。

また、証人Gは、本件手術部位である右小脳橋角部と血腫が認められる第四脳室との距離がわずか一センチメートル余であると証言しているのである。
原審は、顕微鏡下での手術であること等を理由に、近接しているとはいい難いとしているが、手術部位と原審認定の血腫の位置との距離は、手術中の血管損傷等による血腫発生の疑いを否定し得るほどの距離とは評価し難い。

以上のとおり、血腫の位置等に関する原審の認定事実を前提にするとしても、血腫の位置をもって、脳ベラ等手術器具の操作上の誤りにより血腫が発生したものとは認められないと判断することはできないというべきである。

5 また、原審は、本件においては、小脳橋角部から出血したとすれば横にずれるはずの第四脳室の位置のずれが見当たらないから、小脳橋角部から出血したものではないと考えるとの証人Gの証言を引用した上、これに反して手術部位から出血したとする上告人らの主張を裏付けるに足りる証拠はないとしているが、かえって、診療録には、被上告人B2による「くも膜下出血(術創部)が脳室内に逆流して来たと考えられる」との記載があり、右は、被上告人B2が当時、上告人らの主張のとおり手術部位から出血したものと考えていたことをうかがわせる。

したがって、診療録に右記載があるにもかかわらず、これに触れることなく上告人らの前記主張を裏付けるに足りる証拠がないとした原審の判断は、採証法則に反するものといわなければならない。

以上によれば、本件手術の施行とその後のFの脳内血腫の発生との関連性を疑うべき事情が認められる本件においては、他の原因による血腫発生も考えられないではないという極めて低い可能性があることをもって、本件手術の操作上に誤りがあったものと推認することはできないとし、Fに発した血腫の原因が本件手術にあることを否定した原審の認定判断には、経験則ないし採証法則違背があるといわざるを得ず、右の違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は右の趣旨をいうものとして理由があるから、その余の上告理由について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、更に再鑑定等の必要な審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。

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